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岩室、伝統的集落の変貌、両墓制

 日曜日の今日は昨日に続いて爽やかな好天。午前中は、ぶらりと自転車に乗って、自宅近くの散策をおこないました。私の自宅は、天理市内、前栽駅から南に歩いて7,8分のところにあり、天理大学の学生たちも、駅までの道などでよく出会ったりするところです。

  自転車ですぐ近くに、岩室(いわむろ)という古い村があり、奈良盆地=国中(くんなか)でよく見られる伝統的村落の景観を残しています。ムラの中には、広々とした敷地を白壁の塀で囲った家屋敷の甍がひしめいていて、鎮守の森やお寺などもあり、家家の間には迷路のような狭い道が縦横につながっています。家屋の密集するムラの外側には、田んぼや畑が広がり、ムラからやや離れて共同墓地があるという典型的な村落構造をみることができます。

  この岩室には、かつて金関恕先生の御尊父、金関丈夫先生がお住まいになっていた家がそのまま残っていて、現在は、金関先生のご子息でバイオリニストとして知られる金関環氏の表札がかかっています。岩室の集落は、金関丈夫先生が帝塚山大学時代に、『岩室』という民俗誌の記録を残していることでも知られていますが、そのあとの数十年の間に、伝統的な家屋が近代的な住宅に立て替えられるなど、ムラの姿も大きく変貌をとげています。国道に面したところにあるひとつの家は、典型的な大和棟の住宅として、大阪の国立民族学博物館に昭和40年頃の姿が模型で展示されていますが、最近、屋敷の敷地の半分が駐車場に変わりました。

  国道を挟んだ北側の一帯は、戦前から唐古・鍵遺跡と並んで大和を代表する弥生時代の遺跡、岩室遺跡(現在は平等坊・岩室遺跡)として知られていて、少し前までは田んぼや畑が広がっていましたが、最近になり、市街化調整区域だったのが用途地域が変更されて、開発が進み、発掘調査がおこなわれたあと、現在は、商業施設やマンション・住宅が立ち並んでいます。国の史跡に指定された唐古・鍵遺跡がこれから本格的な整備事業が始まって、遺跡の保存活用が進められようとしているのとは対照的な姿になっていると言えます。奈良県に限りませんが、弥生時代の集落遺跡の多くは、経済価値の大きな平野部にあり、残念ながら、面的な遺跡保存が難しいという現実的な問題があります。

  宅地や商業用地としての開発が進む平等坊・岩室遺跡ですが、その一画に、奈良盆地に数多い溜め池のひとつ、ヒライ池があります。今は池の周囲がコンクリートで護岸されていますが、その工事が1983年に行われ、橿考研による事前の発掘調査で確認された岩室池古墳では、古墳時代後期の形象埴輪がバラバラになって見つかりました。実は、当時高校生だった私も春休みにその発掘調査を手伝わせてもらったのですが、最近、教育委員会によって新しい遺跡の説明板が設置され、うれしく思っています。

 ヒライ池の横にある共同墓地では、民俗学のうえで有名な「両墓制」の名残を見ることができます。かつてこの墓地では、土葬がおこなわれていて、その昔、岩室のムラから繰り出す野辺の送りの葬列を通りがかりで目撃したことがあります。今でも、「埋め墓」と「参り墓」の場所を現地で確認することができます。

 民俗学の記述部分、何か間違っているところなどあるかもしれません。斉藤先生、大丈夫でしょうか。よろしければ、補足のコメントなどお願いします。(K)

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